【誰も期待していない新連載!】
  辛口批評7(2014年4月〜)
 
【第一回 4月8日更新】
 
 かなり長らく沈黙を守っていたが、これから数年が日本酒(と焼酎)業界にとって正念場となるとの想いから、重い腰を上げて、多少なりともこれまで考えてきたこと、今思うことなどをつらつら残しておこうと。老い先短い我が身、いつまで続くか分かりませんが、暇なときにおつきあいいただければ幸いです。
 
 さて、皆様がご存じの通り、各方面の尽力もあり、和食(正確には 「和食;日本人の伝統的な食文化」)がユネスコの無形文化遺産に登録された。一応、自称文化人のはしくれとして、日本の食文化が正しく海外に伝えられる期待値が高まるきっかけとなるわけであるし、(まあ、日常知ったかぶりの知識をふりかざして、揚げ足を取ろうとすることを生き甲斐とされている友里征耶氏ほか、ごく一部の方には不満があるかもしれないが)今後様々な形で、この影響がプラスに波及するであろうことを歓迎したい。
 
 ところで、伝統的な食文化と日本酒の関係である。ごく乱暴に語るならば、それぞれの伝統と革新を整理して述べなければならない。
 
 伝統的な食文化であるが、これは郷土食と考えて良いだろう。歴史を振り返るならば、その郷土食と合わせて飲まれていたのは、そのほとんどがずばり「どぶろく」であろう。現在の「清酒」は、ごくおおざっぱにまとめると
 
 @水車精米による高精米の実現、
 A寒作りの徹底
 B醸造法としての「生もと仕込み」の技法の確立
 
の三要素をもとに実現し、さらにはそうした条件のもと
 
 C「生もと仕込み」で仕込むのには理想的であった「宮水」の発見
 
が決定的であった。吉野の杉樽に詰められた灘の酒が、樽廻船によって江戸に運ばれ、その輸送の際に、微震動の効果による熟成と樽香が程よく付いたものを「燗酒」として飲まれたものが、「下り酒」として高く評価されたものがもとになっている。つまりは、地場の酒は「下らない」酒であり、ほとんどの消費者の皆さんに、伝統的な手法と思われている「生もと仕込み」にしても、他の地域でやるとうまくいかなかったことからも、郷土食と「清酒」との相関性は、食文化の伝統という視点からすると、いささか懐疑的に考えないといけないことはおわかりであろう(注)。
 
 さらには、当時の酒はかなり高額であり、こうした酒が日常的に飲まれていたかは、当時の都市部を除いて、きわめて疑問である。「ハレ」の日に向け、どぶろくを仕込んで、それを飲んでいたというのが実情であろう。
 
 革新の食文化であるが、これは懐石を基調とした和食である。こちらは不明な要素が多いが、(不正確さを前提にごく乱暴に語るならば)主には懐石を基調として、出汁をとる際の合わせ出汁の発見や、さまざまな輸入品種の導入・定着や食品流通の利便性の条件が付き、飛躍的に発展していったのが実情であろう。伝統的な和食と思われているものは、実は「文化としての食」ではなく、むしろ「文明としての食」と認識すべきではないかと愚考している。革新の酒とは、微生物を徹底管理した上で醸され、貯酒管理された、吟醸酒をその先鋭とする「現代清酒」である。この懐石系と現代清酒の相性の関係、文化としての食と酒のそれぞれを同根としているので、他のアルコールと比較して一定の相性は認められるが、相性がいいはずだという思い込みを前提に、とんでもない組み合わせで提供されていることが多々あるのではないかと懸念している。
 
(注)このあたりの経緯については、先学がいろいろ指摘をされているが、興味のある方は、情報がほぼ正確に1番よく整理されている『日本酒のすべてがわかる「本」』(穂積忠彦著 健友館 刊)をご参照されたい(類題の本として、「決定版 日本酒がわかる本」という愚書が出ているが、間違えて手を出してはいけません)。穂積先生はいろいろな本を書かれているが、内容が重複することが多いので、興味があっても全部を読む必要はない。穂積先生の著書としては、この著作と『ほろ酔いの美学−台所の酒から秘酒の求め方まで』(同じく健友館 刊)が、情報が古くなっているが、知的飲酒を心がけたい、飲んべえの皆様に必読の名著として推奨したい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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